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前回は、茅ケ崎市の男性からの質問に答えたので、今回厚木市の女性の質問に答えよう。まず、ここでのテーマは「教典の解釈」であって「真理の解釈」ではないことを確認しておく。
厚木市の女性は、古い時代に書かれた教典を現代人が読む場合、その解釈が昔のものから変わる必要があることは認める。が、そうやって打ち出された新しい解釈が正しいか否かをどうやって判断するか?―という点を質問したのだ。私はこの時、黒板に「理性」という文字を書いた。人間には理性があるから、それによって判断することができるという意味である。そして、理性をめぐるイスラーム内部の考え方の違いについて触れたのだった。
昔からの本欄の読者ならば、イスラームの中の「理性主義」について私がやや詳しく書いたことをまだ覚えておられるだろう。このテーマは、6日の本欄で紹介した私の新刊書『衝撃から理解へーィスラームとの接点をさぐる』(生長の家刊)の中にも含まれているから、ここでは同書のページを示しながら説明していく。
あえて大ざっぱに言えば、イスラーム内部の二大宗派である「スン二派」と「シーア派」の違いの1つが、教典解釈における理性の位置づけなのである。宗教の教義を導き出す元になるものを一般に「法源」く真理の源の意)と呼ぶが、イスラームにおける法源は、①コーラン、ハディースなどの教典、②イスラーム共同体の合意、③理性、などが挙げられている。このうち①と②は、スン二派でもシーア派でも共通しているが、③の理性については、前者よりも後者の方が尊重度が高い。また、スン二派の中でもムー夕ジラ派の流れをくむものは、理性を重んじる法解釈の立場を現在もとっている。しかし、今日の問題は、中東などのイスラームの考え方が、スン二派の中でも理性を法源として認めないワッ八ーブ主義であるということなのだ。